源応尼(華陽院)とはだれ?家康との関係は?

源応尼(華陽院)

源応尼げんおうに(華陽院けよういん)ってだれ?
と思う人も多いでしょう。

歴史ドラマなどで若き徳川家康
「ばば様」と呼んでいるのを
見たことはありませんか。

そのばば様が源応尼で、
家康の本当の
おばあさまだったのです。

では、戦国の世をたくましく生きた
源応尼の人生をみていきましょう。

スポンサードリンク




源応尼(華陽院)は5回も結婚した!

源応尼の名は「於富おとみ」、
「於富の方」と呼ばれていました。

父は青木加賀守弌宗
三河(現・愛知県)の
寺津城主・大河内左衛門佐元綱とも
いわれてさだかではありませんが、
りっぱな武将、大名の娘だったようです。

源応尼の最初の結婚は
刈谷城城主・水野忠政とでした。

仲睦まじく
信近忠守於大おだい
二男一女をもうけます。

ところが隣国の岡崎城
城主・松平清康
勢力を広げ攻めてきました。

戦国イメージ

その講和の条件に
「源応尼をもらい受ける」
とあったのです。

驚きの条件ですが、世は戦国。

武家の子女は
政治の駒として扱われ、
このようなことは日常でした。

ましてや源応尼は美女だと評判で、
目をつけられたのでしょう。

忠政に離縁された源応尼は
まだ乳飲み子だった於大も残し
泣く泣く清康の所に行くのでした。

清康は西三河を統一し、
なおも力を伸ばそうとするのですが
今川・織田両家に挟まれてしまいます。

これを
「お家の大事」
と、とった家臣が
清康をしてしまうのです。

清康の息子・広忠
跡を継がせれば松平家は潰れません。

滅亡の危機とはいえ
夫を亡くした源応尼は、
清康との子・信康碓井うすいを残し
松平家を出るしかありませんでした。

源応尼イメージ

身分があり、実家の力もある
源応尼は引く手数多なようで、
星野秋国、菅沼定望、川口盛祐
結婚しますがいずれも夫に先立たれます。

5回の結婚が終わり、
亡き夫たちの菩提を弔うため出家し
「源応尼」と名乗るようになります。

源応尼(華陽院)と家康

源応尼が
水野忠政の所に置いてきた
於大はどうなったのでしょう。

忠政は松平清康と
もっと関係を深めたいと考え、
於大は清康の嫡男・広忠に嫁がされます。

そして1543年、竹千代が生まれます。

そう、のちの家康ですね。


源応尼系図

そんななか
水野忠政の後を継いだ信元
今川から織田へ寝返り
広忠にも織田に付けと言ってきました。

広忠は
今川に庇護を受けているため拒否。

仕方なく於大を離縁するのでした。

残された竹千代は
人質として今川家へ差し出されます。

それを知った源応尼は
どういったつてかは不明ですが、
今川義元に竹千代の面倒をみたい、と
願い出るのです。

今川館近くの智源院に庵を結び、
甥の大河内政局まさちかとともに
竹千代の育成に励みます。

我が子を手元で育てられなかった
罪滅ぼしでしょうか。

源応尼の薫陶を受け
竹千代は立派に育っていきました。


1560年。

今川が京へと向かう
先陣を任された竹千代が
出立する直前、
源応尼が息を引き取ります。

68歳でした。

もう竹千代が帰って来ないのが
わかっているかのようです。

あの桶狭間の戦いが起こり
竹千代は人質から解放されるのでした。

家康となった竹千代は後年、
源応尼の法要を行い、

智源院を源応尼と改め
彼女も源応尼と
呼ばれることになりました。

スポンサードリンク




まとめ

戦国時代の婚姻は
家や政治の駆け引きで行われ、
男だけでなく女も
戦っていたのだといえますね。

コメント

タイトルとURLをコピーしました