樋口一葉の悲しいエピソード なぜ早世したのか?

樋口一葉

2004年から五千円紙幣に
描かれているのが樋口一葉です。


日本銀行券の肖像に
女性が登場したのは
この樋口一葉が初めて。

日本初の女流職業小説家として
奮闘したのが起用された理由だとか。


今は女性が職業を持つのは
当たり前ですが、
一葉が生きた時代は違ったようです。

樋口一葉がなぜ
職業を持たなければならなかったのか、
若くして散っていった
彼女の生きざまを見ていきましょう。

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樋口一葉の経歴

まずは樋口一葉の経歴を
簡単にまとめてみました。

1872年 明治5年5月2日(旧暦3月25日)樋口則義と多喜の次女・奈津として誕生
1877年 明治10年5歳西南戦争が起こる
一葉、私立吉川学校に入学
1881年 明治14年9歳次兄・虎之助が勘当される
下谷区御徒町へ転居 
11月に一葉、私立青海学校に転校
1882年 明治15年10歳銀座にガス灯がつく
1883年 明治16年11歳12月高等科第四級を首席で卒業
1885年 明治18年13歳長兄・泉太郎が肺結核で死去
1886年 明治19年14歳歌塾「萩の舎」に入門
1889年 明治22年17歳父・則義が多額の負債を残して死去 
この頃より小説を書く
1890年 明治23年18歳萩の舎の内弟子として住み込むが5ヶ月で辞める
9月母・多喜、妹・くにと3人で本郷菊坂に引っ越す
11月29日 第1回帝国議会が開かれる
1891年 明治24年19歳『かれ尾花』など執筆
一葉というペンネームを使いはじめる
4月15日半井桃水に師事する
1892年 明治25年20歳3月『闇桜』発表
6月22日桃水と絶交する
11月『うもれ木』を発表
1893年 明治26年21歳7月吉原遊郭近くで雑貨店を始める
『琴の音』を文学界に発表
1894年 明治27年22歳5月店を引き払い、本郷区丸山福山町転居する
萩の舎と交渉し、月2円の助教料を得る
7月25日日清戦争が始まる
12月『大つごもり』発表
1895年 明治28年23歳4月17日日清戦争終わる
『たけくらべ』『ゆく雲』『にごりえ』『十三夜』などを発表
1896年 明治29年24歳11月23日肺結核で死去

筆者は樋口一葉という人物は
もっと新しい時代のひとだと
思っていたのですが、
明治初期のひとだったのですね。


あの西郷隆盛が戦った
西南戦争当時、一葉は5歳。

西郷隆盛


初めての帝国議会(今でいう国会)が
開かれたのは18歳の時ですから、
まだまだ女性の地位は低かったはずです。

樋口一葉の父・則義
現在の山梨県甲州市の
農家の息子でした。


彼は農業より学問を好み、
多喜と駆け落ち同然で
江戸に出て行きました。


運よく士族の身分を得て
明治維新後は東京府庁に勤めるのですが、
闇金融業や不動産売買に手を出しては
借金をするなどルーズだったようです。


子どもは長男・泉太郎、次男に虎之助
娘は奈津(一葉)
くにの5人をもうけますが、
藤は経済的な理由から
生まれてすぐに里子にだされたそうです。

樋口一葉のエピソード

樋口一葉のエピソードは
「貧乏」のひとことに
尽きるのではないでしょうか。

樋口一葉イメージ


父・則義はお金にルーズで
多額の負債を残したまま亡くなり、
その返済は一葉ひとりの肩に
乗っかってきます。

「昨日から家にはお金というものは一銭もない。」

(明治26年3月15日『樋口一葉日記』)


「我が家の貧乏は日ましにひどくなって、今はもうどこからも借金する方法もなくなってしまった。」

(明治26年3月30日)

則義がしたことで唯一救いだったのは
一葉に教育を受けさせたことでしょうか。


1886(明治19)年での就学率は
男子が62%、
女子29%だったのですから、
一葉に素質があったとはいえ
功績といえるでしょう。


ただし母の多喜は
「女には学問はいらない。それよりも、家で針仕事や家事を身につけるべきだ」
と反対し、進級はできませんでした。


一葉は「女」だからと言われることに
理不尽さを感じたことでしょう。


見かねた則義は代わりに
中島歌子の歌塾「萩の」に
入門させます。


一葉はここで初めて和歌と
出会い頭角を現します。

和歌

入門して半年後に、
名前を伏せて和歌の得点を競う
歌会が催され、
一葉は見事一位となるのです。

わかれんと 思ふばかりも 恋しきを いかにかせまし 逢はぬ月日を

―いっそ別れようと思うばかりに恋しい想いをどうしたらいいのでしょう。逢わない月日をどう過ごしましょう


これはのちに作られた和歌ですが、
きっと美しい歌を詠んだことでしょうね。

父・則義が亡くなったことで一葉は
萩の舎の内弟子として
中島家に住み込みます。


しかし下働きのような扱いを受け、
5ヶ月で辞め
母と妹の3人で暮らすことになります。

樋口一葉の恋愛エピソード

樋口一葉には
渋谷三郎という許婚がいたのですが、
一葉の父が多額の負債を遺したことで
婚約を破棄されています。

その頃、
萩の舎の姉弟子である田辺花圃かほ
小説を出版し多額の原稿料をもらったと
いうのを伝え聞き、
一葉は借金返済のために
自分も小説を書こうと思い立ちます。


そのためには花圃のように
師匠を探そうとしていた時、
妹・くにの友人の伝で
半井桃水なからいとうすいに巡り合うのです。


桃水は新聞に載る
大衆向けの小説で人気だった作家で


「私は先生と呼ばれるほどの才能はないけれど、お話の相手にはいつでもなりましょう。遠慮なくいらっしゃい」
と、優しい言葉をかけられたことに
感動した一葉は、
その場で涙をこぼしたといわれています。


父の借金を背負い、許婚に捨てられ
辛いことばかりの一葉の
胸に刺さったのでしょう。

「顔色は大変よろしく、おだやかで、少し微笑まれたお顔は、ほんとに三歳の幼児もなつくように思われました。」

(明治24年4月15日『樋口一葉日記』)

ひとめぼれに近い一葉は19歳。
妻と死別した桃水は31歳。


桃水の薫陶もあり
翌年には『闇桜』を発表します。

そんなふたりを周囲の者は噂します。


教えを請うとはいえ、
結婚の約束もしていない桃水のもとを
頻回に訪れるのはいかがなものか。


中島歌子も
「萩の舎の品位が下がる」
と忠告してきます。


一葉と桃水。


ふたりは子弟の一線を
越えたかどうかはわかりませんが、
とにかく世間はそれほど
やかましかったのです。


桃水と萩の舎を天秤に掛け、
結局一葉は桃水に絶交宣言します。


桃水は
「お前様のご都合よきよう」
と答えたそうです。

樋口一葉の活躍

一葉というペンネームは
1891年(明治24年)ごろから
使っていたようで、


インドの達磨大師が中国の揚子江を
一葉の芦の葉に乗って
中国に渡ったという伝説をもじって
「私にもお足(銭)がない」
と冗談めかしていたそうです。

1892年(明治25年)になると
姉弟子の田辺花圃が雑誌「都の花」での
執筆を勧めてくれ『うもれ木』で、
原稿料11円75銭を得、
6円は借金の返済に充てたそうです。


この掲載をきっかけに、
一葉には出版社から
執筆の依頼が増えたのですが、
大衆受けが良い絵空事のような
小説しか求められないことに葛藤し
次第に書けないという
スランプに陥るのです。


それなのに母・多喜はまだ書いていない
原稿料を担保に借金をし、
一葉は
なんとかしなくてはなりませんでした。


翌年、21歳の一葉は
吉原遊郭近くの下谷龍泉寺町に
荒物と駄菓子を売る雑貨店を開きます。


飲み屋の女性や芸者から頼まれて
手紙の代筆したりと、
ここで見聞きしたことがのちの
『たけくらべ』に影響するわけです。


この店も当初はよかったのですが、
競合の店ができたのと
日清戦争の影響でインフレの物価高で
引き払わざるをえませんでした。

行き詰っても
人の真心に訴えるような小説を
書きたいと考えていた一葉に
かつて花圃が紹介してくれていた
ロマン主義の文芸雑誌『文学界』から
執筆依頼が舞い込みます。


編集者の星野天知が、
「大衆なんて気にするな。
自由に書けば良い。」

と伝えると吹っ切れた一葉は
次々と新しい小説を生みだしていくのです。


『たけくらべ』『ゆく雲』『にごりえ』
『十三夜』などを発表し、
幸田露伴森鷗外斎藤緑雨からも
高い評価を得た一葉の本郷の家は
さながら文化サロンのように
文人たちが集まってきました。


特に森鴎外は「一葉崇拝者」
と、自認するほどでした。

これからもっと小説を書くぞ!
書けば生活も楽になるはずだ!
と、若い一葉の
未来が開いたという時
一葉が体調を崩します。


森鴎外は高名な医者に診せますが、
肺結核で治らないと診断されるのです。
長兄の泉太郎がそうだったように、
明治の当時は
国民病とも呼ばれ不治の病です。


そうして
1896年(明治29年)11月23日、
24歳と6ヶ月で
樋口一葉は亡くなります。


お金がなかったため
葬式の会葬を断ったそうです。


樋口一葉は死んでも
貧乏がつきまとう人生だったと
いえるのではないでしょうか。

一葉は亡くなる前に、
書き綴った日記とメモを焼きすてるよう
妹・くにに言い残しますが、
くには大事に保管し今日に至ります。

一葉記念館

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まとめ

樋口一葉が生きた時代に
女性が借金を返済するには
何か秀でた芸があるか、
『たけくらべ』の美登利のように
身を売るしかなかったでしょう。


一葉には
秀でた文学の才能がありました。


生きるために
小説を書くしかなかったのです。

一説に一葉はひどい近眼だったとか。


それゆえ
細かい針仕事などは頭痛がひどくなり、
書くことを好んだともいわれています。

樋口一葉

これは一葉と
母・多喜、妹のくにの写真です。


右が一葉。

手を隠しているのは
写真に魂を持って行かれないように
手を隠した、と言うのです。


一葉の写真、
みなさんの印象はどうですか?

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