北条政子の夫はなぜ流罪だったのか?

北条政子

北条政子の夫となった源頼朝よりとも
なぜ伊豆に居たのでしょう。


それは源氏の棟梁となった頼朝は
京の都から遠く離れた伊豆に
流されたからです。

では、なぜ流罪になったのかを
みてみましょう。

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平治の乱勃発

源平入り乱れて争った
保元の乱から3年。

国政改革を押し進める信西しんぜい
台頭してきた平家への不満から
1159年末、
頼朝の父である源義朝よしともらが乱を起こした。

戦


信西を討ち取りはしたが
平氏率いる北面武士の
数には及ばず、敗走。

父・義朝は処刑されてしまった。

源頼朝 伊豆へ

源頼朝は義朝の嫡男であったから、
この時点で源氏の棟梁となる。


だが、罪人の子でもあるわけだ。
しかも
国政を揺るがす大罪を犯している。


連座で死罪は免れぬと
頼朝も覚悟したでしょう。

少年頼朝

ところがそこへ救世主が!


平清盛の継母・池禅尼いけのぜんに
頼朝が亡き息子に
似ているから助けてほしい、
と清盛に願いでたのです。


無下に断れず
清盛は罪一等を減ずるのでした。


これは清盛の
手落ちだったのではないでしょうか。

のちに生きながらえた頼朝が
平家を滅ぼすのですからね。

ということで頼朝は遠い伊豆で
流人となったのです。


流人といっても元は
右近衛将監しょうげんという官僚ですから、
伊豆では「名士」扱い。


狩りなども行い結構自由だったようで、
北条政子とも逢瀬を重ねていましたね。

源頼朝の弟の罪は?名前は?

つぎに源頼朝の弟たちが
どんな罪になったかみてみましょう。


頼朝の末弟で源義経が有名ですが、
彼が「九郎」と呼ばれているように
男子9人の兄弟がいます。


9人もこどもを生んだの!?
と驚かないでください。


当時は正妻以外にも
妻を持つことが当たり前でしたので、
源義朝と複数の女性との子たちです。

平治の乱が終わった
1160年時点での頼朝兄弟の処遇です。

名前処遇
長男義平よしひら斬首。19歳
次男朝長ともなが戦死。17歳
三男源頼朝伊豆流罪。13歳
四男義門よしかど戦死。年齢不詳
五男範頼のりより秘かに養われる。10歳
六男希義まれよし土佐流罪。8歳
七男阿野全成あのぜんじょう仏門に入る。7歳
八男義円ぎえん(乙若丸)仏門に入る。5歳
九男源義経(牛若丸)仏門に入る。0歳

三男の頼朝が嫡男になったのは
実母の出自が良かったからと
いわれています。

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北条政子の夫はなぜ流罪だったのか?のまとめ

北条政子の夫・源頼朝が流罪だったのは、
頼朝の父が罪を犯したからでした。


本来なら死罪になるところを流罪となり、
生きながらえることができたということです。

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