日出ずる処の天子・推古天皇は何したひと?

推古天皇

初の女性天皇・推古天皇
聖徳太子厩戸皇子うまやどのみこ)を
摂政に置き大きな政治改革を行いました。


それはどんな目的で
行われたのか見てみましょう。

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推古天皇が遣隋使を送ったら…

推古天皇が即位したのが593年。


当時、朝鮮半島では
高句麗こうくり百済くだら新羅しらぎ
領土を広げようともめていました。


ややもすると海を越えて
倭の国に攻めてくる恐れがありました。


そこで久しく中国を統一した大国、
と友好関係を持ち、
後ろ盾になってもらおうと考えたのです。

推古天皇


意気揚々と600年に第一回目の
遣隋使を送ることになりました。


しかし、
国書を携えず、礼儀もなっていない使者に
隋の帝・楊堅ようけん
「国としてなっていない」
と突っ返すのです。


国として成り立っていない―


これにショックを受けた聖徳太子は
冠位十二階を定めたり、
天皇が政をしやすいように
遷都までしたのです。


万全を尽くし、
607年に肝いりの小野妹子
2回目の遣隋使として派遣したのです。


ところが―
妹子が手渡した国書に
“日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや”

「日出ずる処の天子とはなんだ!
天子は私ひとりだ!
と、煬帝ようだいを怒らせてしまいました。


さすがの聖徳太子も
完璧ではなかったようです。


そんなこんなで煬帝からの返事と
隋からの使者たちと妹子たちは帰ってき、
遣隋使は隋が滅ぶまで
5回派遣されるのです。

推古天皇が目指した中央集権体制

推古天皇と聖徳太子は
天皇を中心とした政治体制を目指し
さまざまなことをやっていきます。

冠位十二階

冠位十二階は603年に制定されました。


それまであった
特権を世襲する氏姓うじかばね制度をやめ、
才能を基準に人材を登用するものです。


小野妹子もこれで登用されたのです。

徳・仁・礼・信・義・智を
それぞれ大小にわけて十二階として、
紫・青・赤・黄・白・黒の
六色の冠を授けられました。

憲法十七条

冠位十二階が制定された翌年の
604年に憲法十七条が発せられました。


天皇を中心とした中央集権体制を
整えるための要です。


豪族たちに臣下としての心構えを示し、
天皇に従うことを強く言っています。

  • 第1条 和を尊ぶべきこと
  • 第2条 仏教を敬うべきこと
  • 第3条 天皇に服従すべきこと
  • 第4条 礼法を基本とすべきこと
  • 第5条 賄賂を断ち、訴訟を公平に裁くべきこと
  • 第6条 勧善懲悪を徹底すべきこと
  • 第7条 適材適所の職掌を守るべきこと
  • 第8条 早く出仕して遅く退出すべきこと
  • 第9条 信を義の根本とすべきこと
  • 第10条 怒りを捨てるべきこと
  • 第11条 官人の功績と過失によって賞罰を行うべきこと
  • 第12条 国司・国造は百姓から税を不当に取らないこと
  • 第13条 官吏はその官司の職掌を熟知すべきこと
  • 第14条 他人を嫉妬せざること
  • 第15条 私心を去るべきこと
  • 第16条 人民を使役する際には時節を考えるべきこと
  • 第17条 物事を独断で行わず論議すべきこと

仏教や儒教の教えが
ちりばめられています。


聖徳太子が大陸から
たくさんの教えを請うたのがわかります。


集大成ともいえる憲法十七条に
推古天皇も満足したことでしょう。

小墾田宮遷都

603年、推古天皇は
豊浦宮とゆらのみやから小墾田宮おはりだのみや
居を移しました。


小墾田宮はコの字型に造られ、
公の儀式を行う朝庭ちょうていが設けられました。

隋からの使者が来た時、
ここで歓待したという記録が残っています。


外交面でも不可欠な宮だったのですね。

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まとめ

推古天皇と聖徳太子は
他にもさまざまな事をしています。


あわせの服や箸を推奨したり、
礼などの作法も教えています。


推古自ら薬狩りに出向いたりもしました。


この推古朝と呼ばれる時代は
大陸から多くの知識を得、
国が大きく変わっていったのです。

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