近年歴史上の
人物を扱ったゲームなどで
多くのひとに
知られるようになった淀殿。
ゲームではなく実際に淀殿は
どんな生涯を送ったのか
わかりやすくまとめてみました。
淀殿の生涯
淀殿の本名は浅井茶々。
戦国武士の浅井長政を父に。
母はあの織田信長の妹の市です。
信長の姪になるのですから
波乱の生涯が予想されますね。
1569年 | 小谷城(現在の滋賀県長浜市)で生まれる | |
1573年 | 小谷城の戦いで小谷城が陥落 父・長政自害 兄・万福丸処刑 母・市と妹・初、江とともに織田側に引き取られる | 4歳 |
1582年 | 本能寺の変が起こる 母・市が柴田勝家と再婚し北ノ庄城(現在の福井県福井市)へ移る | 13歳 |
1583年 | 勝家が羽柴秀吉と対立し賤ヶ岳の戦いが起こる 北ノ庄城陥落勝家・市が自害 三姉妹は秀吉の庇護を受ける | 14歳 |
1585年 | 秀吉関白になる | 16歳 |
1588年 | 秀吉の側室となる | 19歳 |
1589年 | 捨(鶴松)を生む | 20歳 |
1591年 | 捨2歳で死亡 | 22歳 |
1593年 | 拾(秀頼)を生む | 24歳 |
1598年 | 秀吉62歳で死亡 | 29歳 |
1600年 | 関ヶ原の戦い | 31歳 |
1614年 | 大坂冬の陣 | 35歳 |
1615年 | 大坂夏の陣で大坂城陥落 秀頼とともに自害する | 36歳 |
淀殿の名前の由来は?
淀殿が捨(鶴松)を懐妊した時、
喜んだ秀吉から淀城を賜ります。
それから「淀殿」と
呼ばれるようになりました。
淀城は
京都府京都市伏見区にあった山城で
現在は石碑が遺るだけです。

淀殿の子孫はどうなった?
淀殿が生んだ子で成人したのは
秀頼だけです。
その秀頼には側室との間に
国松という男子と娘がひとりいました。
しかし大阪城落城のあと、
国松は処刑。
娘も天秀尼という尼になることで
命を長らえました。
天秀尼が子を生さず亡くなったことで
淀殿の子孫は絶えました。
それは秀吉の子孫も
絶えたのを意味するのです。
まとめ
淀殿は淀城に住んでいたので
「淀殿」と呼ばれ、
三度の落城に会う波乱万丈な生涯でした。
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