淀殿はなぜ秀吉の側室になったのか?

淀殿

豊臣秀吉の側室になり
秀頼を生んだ淀殿。

秀吉は淀殿にすれば
父、母を死に追いやった仇なのに
なぜ側室になったのでしょうか。

淀殿が側室になった理由を
考察していきましょう。

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淀殿が側室になった理由

淀殿が生きた時代は
まだまだ自分の意思で
結婚できるものではありませんでした。

女性は実家の手駒として娶わせられ、
運悪ければ嫁ぎ先から
実家へ突き返されることもありました。

下剋上の戦国時代。

夫が、実家が滅ぶのは珍しくなく、
女性も生きていくために
後ろ盾が必要だったのです。

敗れていった大名の娘や未亡人が
敵対した相手の側室になった
というのはよくありました。

側室だろうが正室だろうが
面倒をみてくれるなら
選り好みはできなかったでしょう。

「貞女は二夫にふまみえず」
という儒教の教えは
江戸時代になって広まったので、

戦国の世の女性が
疑問に感じることはなかったのでは
ないかと思われます。

淀殿はなぜ秀吉の側室になったのか?

前述したように女性が
結婚相手を選ぶことは稀でした。

淀殿の妹・はつ(常高院)と
ごう(崇源院)も秀吉の意によって
嫁がされています。

淀殿も次は自分だと
覚悟していたでしょう。

豊臣秀吉

それなのに縁談の話はないまま行き遅れ、
まさかの秀吉からアピールされます。

これを淀殿はどう思ったのでしょう。

二度の落城と、
織田信長という後ろ盾を
失うという経験から、
自分の相手には確固たる男性を
望んでいたことでしょう。

その点、
秀吉ならすでに関白になっていたので
申し分はないのですが、
いかんせん秀吉は
50歳を超えていたのがネックです。

淀殿と秀吉の仲は良かったのか?

淀殿と秀吉の仲は良かったようです。

特に秀吉の好いている様は
ほほえましいくらいです。

一説には淀殿が母・市に似ていたから、
と言われていますが、
現在残されている肖像画から見ると、
淀殿は市より父・浅井長政あざいながまさに似ています。

もしかすると淀殿の所作振る舞いが
市を彷彿させたのかもしれません。

そういうことってありますよね、
言い回しが似ている親子とか。

それから
秀吉が主筋の織田の跡取りを望んでいた、
とも言われますが秀吉の側室たちは
錚々たる武家の妻女ばかり。

月桂院という織田よりも格上の
足利氏の末裔もいたのですから、
誰が後継ぎを生んでも
OKだったのではないでしょうか。

たまたま淀殿が秀頼を生んだため
「織田の血筋が〰」
の憶測が流れたのでしょう。

もうひとつ、
秀吉が淀殿を大切にしていた
エピソードで醍醐だいごの花見があります。

醍醐寺の桜

京都の醍醐寺で行われた
盛大なお花見では皆が輿こしに乗って参加。

その輿の順で淀殿は
正室・北政所の次、2番目でした。

これは秀吉が側室たちの中で
一番気に入っているという証ですね。

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まとめ

淀殿が生きた戦国時代は、
女性が好きに結婚相手を
決めることができず、

請われれば
側室になるしかなかったのです。

天下人となった秀吉の側室になることは
淀殿にとって悪いことばかりでは
なかったと考えられます。

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