豊臣家を滅亡させた淀殿は日本三大悪女なのか?

淀殿

淀殿は
北条政子・日野富子と並ぶ
日本三大悪女のひとり。

秀吉を籠絡し、
ついには豊臣家を滅亡に導いた
悪女と言われています。

本当に悪女だったのか
くわしく見ていきたいと思います。

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秀頼の父親は誰?

淀殿は豊臣秀吉の側室になり
秀頼を生んだ女性として知られています。

しかし、秀頼の父親は誰?
本当に秀吉のこどもなのか
当時から疑われていたようです。

豊臣秀頼

無類の女好きであった秀吉に
子ができたことはなく、
それなのに
淀殿がふたりも子を生したことに
周囲はもちろん秀吉も驚いていまいた。

秀吉に生殖能力がなかったわけではなく、
長浜城主時代に
石松丸という男子を設けています。

残念ながら夭折しましたが、
「秀吉種なし」説は違うようです。

では、
なぜ秀頼の父親が秀吉ではない、
といわれるのか。

それは朝鮮出兵で秀吉がいない時に
秀頼を懐妊したからです。
あ―これはいけませんね。

それを聞いた秀吉は
淀殿付きの女中たちを処刑しています。

まるで口封じみたいですね。

ということは、
秀吉は黙認したということですか。

石田三成や大野治長はるながなどが
秀頼の父親ではないかと
噂されたようですが、
彼らは秀吉の怖さをよく知っています。

そんなことは絶対にしないでしょう。

また、
囁かれる一因に秀頼の体格があります。

秀吉は身長140センチほどの
小男なのに対し秀頼は197センチ
160キロのプロレスラーのような
大男だったからです。

これは淀殿からの遺伝なのです。

淀殿の父・浅井長政は180センチ、
淀殿も165センチあったようです。

兎にも角にも
秀頼の父親は誰なのかは
淀殿のみが知っていることなのですね。

方広寺鐘銘事件

豊臣家滅亡で
方広寺鐘銘ほうこうじしょうめい事件は避けられません。

鐘に
「国家安康」
と銘したあの事件です。

方広寺とは

方広寺は京都市東山区にある
天台宗の寺院で、
秀吉が発願した大仏を納める寺です。

その大仏は奈良の東大寺より大きく
高さが19メートルあったそうですが、
1596年の大地震で
倒壊してしまいました。

秀頼が1612年に再建立したのですが、
地震と落雷による火災で現存しません。

この時造られた鐘が事件の鐘で、
日本三大名鐘の一つとして
今も姿を遺しています。

梵鐘にははっきり
国家安康こっかあんこう」「君臣豊楽くんしんほうらく
と見て取れますよ。

方広寺の梵鐘

「国家安康」は言いがかり?

鐘の銘文は
京都南禅寺の僧・文英清韓ぶんえいせいかん
選ばせたので、
淀殿たちは間違いはないと
思っていたでしょう。

ところが
「銘文に疑わしき義あり」
と家康側が言ってきたのです。

  • 国家安康…家康の名を分断した呪詛である。
  • 君臣豊楽…豊臣を君主と言っている。

淀殿たちが
「呪詛のつもりはない、言いがかりだ」
と言っても、
家康の名が入っているので
難しいことになりました。

徳川 家康
この家康の部分はいみなといって、
口にするのはいけない本当の名前で、
死者に対して使う名なのです。

ですから
「徳川殿」「内府」と呼びますが、
決して「家康殿」とは呼ばないのです。

昔から呪詛される恐れがあるので
本当の名前は
知られないようにしていたのです。

見識の高い高僧たちも
諱を使うのは失礼にあたるとし、
当の清韓も
「諱を使ったが祝いのつもりだった」
と答えています。

大坂の陣

清韓の返答によって
淀殿たちに他意はないと
家康側にわかってもらえたのですが
ギクシャクした関係は残ります。

徳川方との交渉役を担っていたのが
豊臣家家老の片桐且元かつもと

且元が発案したのか徳川方が言ったのか
定かではありませんが、
徳川との仲を修復する案を示しました。

  1. 秀頼が江戸に参勤する
  2. 秀頼が国替えに応じ、大坂城を出る
  3. 淀殿を江戸に人質に送る

当たり前ですが、
淀殿たちは拒否します。

そして、こんな案を持ってくる且元を
徳川の内通者と疑い追放しました。

これを口実に家康は宣戦布告し、
大坂の陣が始まるのです。

豊臣家が滅亡した理由

ご存知の通り大坂の陣で
豊臣家は滅亡します。

淀殿自刃の地

理由として淀殿は気が強く、
政に口出しし過ぎた、と。

さてどうなんでしょうか。

前述した修復案のひとつでも
実行すれば流れは変わっていたでしょう。

滅亡へのシナリオを変えるチャンスは
何度もありました。

しかし、
それをつかみ取る者はいませんでした。

秀吉が亡くなって以降、
関ケ原の戦いなどで、
豊臣恩顧の家臣たちは
徳川方に流れ人材が不足

見かねて淀殿が口を挟めば
もっと離れていく。悪循環ですね。

そこを家康は見逃しはしませんでした。

豊臣家を滅ぼすには家康にも
正当な理由が必要で、
豊臣方の落ち度を主張したのです。

老練な家康に適うはずもありません。

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まとめ

淀殿が生んだ秀頼が
秀吉の子ではなかったというのは、
推測の域を出ません。

それを思わせる資料もあるのですが、
秀吉自身が子と認めていたのは事実です。

そして秀吉の死後、
淀殿は遺された秀頼を守ろうとし、
気鬱病にまでなっていたようです。

懸命に生きていこうとしても
歴史の流れには逆らえませんでした。

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