お江(崇源院)の子孫は現代も続くあのひと!

お江(崇源院)

お江こと浅井江あざいごう

または
崇源院(すうげんいん/そうげんいん)と
呼ばれるこの女性は浅井長政
織田信長の妹・お市との娘。

お市

巷で言う「浅井三姉妹」の末妹です。
お江も姉たちに劣らず
波乱万丈な人生だったようです。

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お江は秀吉によって3度結婚させられた

最初の結婚

両親亡き後三姉妹は
豊臣秀吉のもとにいたのですが、
もちろん秀吉の手駒にされました。

しかし、
一番最初に結婚させられたのは
末妹のお江でした。

当時お江は11歳
相手は母親同士が姉妹で
従兄弟になる佐治一成さじ かずなりです。

この結婚がいつごろだったのか、
正式な婚姻だったのか
明確にはわかっていません。

婚約だけという説もあります。

佐治は佐治水軍を率いる
織田一門であったため
秀吉は懐柔の目的があったようです。

ところが小牧・長久手の戦いで
敵の徳川家康を助けたため
秀吉の怒りを買い離縁させられるのです。

2度目は秀吉の甥

その後、18歳になったお江は
2度目の結婚をさせられます。

秀吉は身内なら大丈夫と踏んだのか、
実の甥で養子の豊臣秀勝
娶わせたのです。

秀勝の兄は秀次、あの関白です。
なんだか嫌な予感…

お江は初めての子、完子さだこを生みますが、
それと前後して夫・秀勝が
出征先で病死してしまうのです。

なんとお江は乳飲み子を抱えて、
未亡人になってしまいました。

3度目に徳川秀忠

完子を育て、お江はこのまま
平穏に暮らしていこうと
思っていたに違いない22歳の時。

秀吉から3度目の結婚を言い渡されます。

今度は徳川の跡取り、秀忠でした。
しかも完子は置いていけ、と言うのです。

完子は
豊臣の血を引いているからでしょう、
淀殿の猶子として育てると
秀吉は約束します。

お江も姉の淀殿ならば、と
泣く泣く完子を手放しました。

1573年小谷城(現在の滋賀県長浜市)で生まれる
小谷城の戦いで小谷城が陥落 父・長政自害 兄・万福丸処刑
母・市と姉・茶々、初とともに織田側に引き取られる
0歳
1582年本能寺の変が起こる
母・市が柴田勝家と再婚し北ノ庄城(現在の福井県福井市)へ移る
9歳
1583年勝家が羽柴秀吉と対立し賤ヶ岳の戦いが起こる
北ノ庄城陥落勝家・市が自害
三姉妹は秀吉の庇護を受ける
10歳
1584年佐治一成に嫁ぐもすぐ離縁11歳
1585年秀吉関白になる12歳
1591年豊臣秀勝と再婚18歳
1592年長女・完子を生む 
夫・秀勝戦病死
19歳
1595年徳川秀忠に嫁ぐ22歳
1597年次女・千姫を生む24歳
1598年秀吉が死亡25歳
1599年三女・珠姫を生む26歳
1600年関ヶ原の戦い27歳
1601年四女・勝姫を生む
三女・珠姫3歳で前田利常と婚姻
28歳
1602年五女・初姫を生む29歳
1603年7歳で次女・千姫、豊臣秀頼に嫁ぐ
家康、徳川幕府を開く
30歳
1604年長男・家光を生む
長女・完子、九条幸家に嫁ぐ
31歳
1605年夫・秀忠第2代征夷大将軍になる32歳
1606年次男・忠長を生む33歳
1607年六女・和子を生む34歳
1615年大坂の陣で大坂城は陥落
姉・茶々自害する
42歳
1616年家康没43歳
1620年六女・和子後水尾天皇の女御として入内47歳
1622年三女・珠姫産後の肥立ちが悪く死亡49歳
1623年六女・和子 明正天皇を生む
秀忠隠居 長男・家光将軍になる
50歳
1626年死亡53歳

お江と秀忠の仲は?

22歳のお江が嫁いだ秀忠は
16歳でした。

6歳年上で3度目の結婚だから
さぞかしカカア天下だろうと
言われていました。

その秀忠も戦国乱世の理のごとく
政略結婚したのですが、
相手の姫が亡くなってしまうという
不幸に見舞われていたのです。

お江も夫を亡くし、
子と離れ離れになる悲しみを抱え
ふたりは慈しみあったのでしょう。

夫婦仲は良く、
お江は二男五女を儲けます。

その長男が3代将軍家光となり、
正室が徳川将軍を生んだというのは
お江だけです。

そしてお江の代で
あの「大奥」が作られました。

当時は「御奥方」と呼ばれ、
お江は御台所みだいどころとして束ねていくのです。

大奥といえば
将軍の側室がいっぱい!
というイメージですが、
秀忠は側室を持ちませんでした。

と、いうより持てなかったと
言った方がいいかもしれません。

つまりお江は夫が側室を持つことを
良しとしなかったのです。

側室がいなくてもお江が7人も
こどもを生んだのだから
必要ないと言えばそれまでですが…

そんな秀忠にだって
女の影がチラつくでしょう。

その女は秘かに男の子を生みますが
お江の知るところとなります。

お江は養い親に
男の子を引き渡せと再三要求しますが、
この養い親も
なかなか手ごわく応じません。

実は武田信玄の娘だったのです。

その男の子は養い親の元で育ち、
のちに保科正之ほしなまさゆきと名乗り
幕府に貢献することになります。

お江は嫉妬したのでしょうか。
姉の初も夫の愛人を殺そうとしたらしく、
淀殿といい、浅井三姉妹は
気が強いですね。

お江の子孫はいるの?

お江の子孫、血脈は
現代にまで受け継がれているようです。

まずはお江と離れ離れになった完子です。
淀殿の尽力で摂関家のひとつ
九条家に嫁いでいます。

完子の息子と勝姫の娘が縁づき
九条家を引き継ぎ、
今上天皇までつながっていますね。

お江の子孫

天皇といえば
明正めいしょう天皇はお江の孫になります。

残念ながらお江が生きているうちに
その姿を見ることはできませんでした。

お江の死因は?

お江は1626年9月15日に
53歳で亡くなっています。

運悪く、
夫・秀忠は後水尾天皇行幸のため、
息子の家光、忠長と一緒に上洛中でした。

9月11日に危篤になり
すぐさま京に知らせが届くと
忠長だけが江戸に戻ります。

秀忠と家光はまだ
京でやることがあり帰れません。

忠長が駆けつけられたのは
お江が息を引き取った2時間後でした。

このお江の亡くなり方が
あまりにも急なことだったのと、
火葬されたことでいろいろと
囁かれることもありました。

そうです、お江は
徳川家で唯一火葬された人物なのです。
…なぜ?

  • 呪詛説
  • 毒殺説
  • 本人の希望説

確かに夫がいない隙を
狙ったようにも見えます。

しかし、お江を亡き者にして
誰が得をするのでしょう。

ここは本人希望説が
自然ではないかと思われます。

お江は夫たちがすぐに
帰ることができないのを知っていました。

だから朽ちていく姿を
見せたくなかったのかも知れません。

すぐさま火葬されることを
望んだのでしょうが、
将軍生母の弔いは
一ヶ月後の10月18日に
増上寺で行われました。

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まとめ

戦国乱世を生き延びた
女性たちはたくさんいますが、

その中で将軍の妻という高位に就き、
その血脈を後世にまで残したお江は
ある意味勝者と
いえるのではないでしょうか。

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